俳句の庭/第63回 昼の月 仲村青彦

仲村青彦
昭和19年千葉県木更津に生まれる。昭和56年「朝」主宰・岡本眸に師事。平成29年「朝」の終刊により「予感」を創刊する。「予感」主宰。俳人協会理事。句集に『予感』(俳人協会新人賞)『樹と吾とあひだ』『春驟雨』『夏の眸』、評論に『輝ける挑戦者たち―俳句表現考序説―』(俳人協会評論賞)。

 月の夜は明るかった。内便所がない家の子供は夜の外便所がつらかったが、月の夜は懐中電灯なしに外に出られてよかった。が、月見の風習がないせいか、その時わざわざ月を見上げることはなかった。
 月の最初の記憶は昼の月。半農半漁の家は、田圃が終わると海苔の漁に変わる。父は夜明け前に出漁し九時ごろ帰る。帰ると、海苔に交じる小海老を取り除いてミンチにし、それを簀に付け、簀を裏干しすると昼飯、海苔が半乾きになるころ海苔簀を表に返して太陽に当て、海苔の乾く音で取り入れて、海苔を剥がし、夕食後に剥がした海苔を畳んで束ねる。終われば夜の十二時を過ぎている。
 子供の手伝いは、海苔干し、海苔簀の表返し、簀の取り入れ。手伝いの合間に地面に釘を打つ遊びをしていると、すぐに仕事の声が掛かる。そんな或る日、昼の空に月を見た。釘打ち遊びの釘で傷つきそうな、秘密のような月であった。周囲で奉公人と呼ばれた住み込みの「兄(あに)さん」が、顔を上げる仕草で教えてくれた昼の月だった。
 文化の日、私は松江から一畑電鉄で出雲大社に向かった。松江予感の会の発会が明日という空は、雲一つなく、ただ昼の月が在った。宍道湖にしじみ漁の舟が出ていて、父が、そしてあの子供の時の昼の月――あそこにもう一人の自分がいるような感じの昼の月――が、思い出された。けれど、この日の昼の月はただすっきりと、秘密めいた雰囲気もなくすっきりと、大気の中に、在った。