俳句の庭/第90回 矢作川 加古宗也
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加古宗也 昭和20年愛知県西尾市生まれ。 昭和45年、村上鬼城の高弟・富田うしほ、潮児父子に師事。昭和52年に12月発行の「富田うしほ追悼号」から「若竹」編集長、平成2年9月から「若竹」主宰。 句集に『花の雨』など六冊。『定年からの俳句入門』『秀句三五〇選・月』など数冊。総監修『ほくめい俳句歳時記・六巻』ほか著書多数。 俳人協会理事、日本文芸家協会会員。 |
私の暮らす西尾市は、矢作川と矢作古川によって生まれた三角形の内側に当たる部分がほぼそれに当たる。江戸時代の始め、徳川家康の命によって、約二キロにわたって、矢作川が開削され、分流堰を起点に古い流れを矢作古川と呼び、新しい流れを矢作川と呼ぶようになった。矢作川には大正時代まで川船が盛んに往き来し、河口付近の大浜・吉良などで生産された塩などが岡崎城下まで運ばれた。岡崎で陸上にあげられた塩は今度は馬の背に乗せられて足助(現在は豊田市)まで運ばれそこを中継地点として、さらに信州(長野県)まで運ばれた。
川舟の水筋を縫ふ夏暁かな 富田うしほ
五月川棹さしながらのぼりけり
五月川生簀に錠を下ろしけり
塩の道はいまも、ところどころにその面影を残している。三河の俳人たちのよき吟行コースになっている。
昭和時代に入ると川舟に水車を仕掛けて、それを動力として、綿織物やガラ紡などが盛んに行われるようになり、ガラ紡は西尾の地場産業になってゆく。「ガチャ万、ガチャ億」などという言葉が流行した時があったほどだ。今はすっかりその面影は無く、現在はトヨタ系の大企業が立地する工業の町に変わっている。
※富田うしほの句はいずれも、うしほ句集『続好日』に収録。