俳句カレンダー鑑賞  平成27年3月

俳句カレンダー鑑賞 3月
桃咲いて遠き昨日の灯るなり 文挾夫佐恵
桃咲いて遠き昨日の灯るなり

文挾夫佐恵
 桃の花は雛祭と通底する季語でもある。第二句集『葛切』に収載されている昭和43年の句だが、句集の「あとがき」には印象的な戦時体験が綴られている。
 雛祭の日、妻である作者は「大人のなぐさめ」にしか思えない紙に描いた粗末な立雛を壁に貼り、一方、敵の爆撃に遭い南方の海に漂流する夫は、今日が自分の命日になったら将来ずっと娘の雛祭は出来なくなってしまうと、お互い小さな娘の将来の幸せを案じる。この一文は何度読んでも感涙を禁じ得ない。
 もっとも、一句独立の読みからは特殊な私的事情までは辿り着けまい。それでもこの句の普遍性には差し障りない。〈遅き日のつもりて遠きむかしかな 蕪村〉も思われるが、上掲句の「遠き」「昨日」の連結には心理的時間の流れを見る。
 桃の花の「郷愁」にはほんのりした抒情のみならず、歳月によって和らげられた心の底の陰影も含まれることを忘れないようにしたい。すなわちこの句の「遠き昨日」とは、幾世も継がれてきた母情の奥行きと言ってもよいかも知れない。 (佐怒賀正美)
 社団法人俳人協会 俳句文学館527号より